


『ETERNALISM』カズローから拝借。 Thank Youuu
室内の展示インスタレーションもほどほどに、カズローの提案で野外に、、、、、
街の灯りと不釣り合いな感じがインスタレーションのテーマと見事にあった一枚だと思います。
シュースケ、カズロー、ナパーム おつかれちゃん またゲリラ撮影したいね!
[S.SYUSUKE EXHIBITION -candle night- @ 大須 kinari 蝋燭の灯りで布地を観る]の続きを読む
- 2011/10/01(土) 11:17:59|
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2011 9/1 - 9/25
S.SHUSUKE exhibition@candle shop kinari
名古屋市大須2丁目キャンドルショップ「kinari」
展示期間中火曜定休
営業時間15:00-21:00
9/25 19:00- キャンドルナイト
Tomoshibi waxxyと洋服実験室マノスによる
インスタレーションパフォーマンス
【蝋燭の明かりで布地を観る】を行います。
当日はライブペイントとライブ縫製で『黒衣』を完成させる予定です。



『手のひら返し』
『蝋燭の灯りで布地を観る』
いろいろな手を持った黒衣(実際にはそこに居るのだが、観客・演者たちの“暗黙の了解”
として劇中では『居ないもの』として扱われる存在)が 暗闇のなかで一本ずつロウソクに
火をつけていきます、すべてに火をつけ終わるとまわりは明るくなりますが、 あらゆるところに
影ができその影が揺れてしまいます。影のできない空間になれてしまっている私たちには不便な
ことがいっぱいです。すべて火をつけ終わると黒衣はゆっくり火を消していきます。
残りの火が少なくなり最後の一本が消されると何も見えなくなります、
その空間の中で黒衣はどんな意味をもつのでしょうか。
- 2011/09/20(火) 23:36:58|
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ナマケモノというバンドをやってます。
のんびりとライブ 年1くらいです。
これは本物のナマケモノ
なまけてては、いカン。
Can - Mother Sky
ダモ鈴木のvo速すぎでしょ。
ダモ鈴木ウィキペディアより
『『ダモ鈴木の出発点は、音楽家やアーティストと言うよりも、自由の境地を求めるボヘミアン、ヒッピーとしての生き方とリンクしたものであった。1960年代後半には新宿でヒッピー(フーテン)生活を経験、当時14歳で、「最年少フーテン」とも呼ばれていた。また、当時のダモは、ジャズ、ジェームス・ブラウン、キンクスなどのファンだった。
高校中退後の1960年代後半、好きなアーティストのライヴを見るため、日本を飛び出し、単身アメリカへ密航。以後、ヒッピーとして世界各地を単独放浪。アメリカ25州を経て東南アジア諸国を回り、ヨーロッパへと渡り、ギターの弾き語りをしながら放浪の旅を続けた。
その際、金の無かった彼は、ヨーロッパの新聞に「パトロン募集」の広告を出し、物好きな金持ちが暫く彼の世話をすることとなる。その生活にも飽き、ヨーロッパではダモ鈴木は、路上でギターの弾き語りをしていたが、当時はギターのコードも三つほどしか知らず、曲もすべて即興で演奏していた。そして、人目を惹くため、長髪に火を点けたり、裸になったりといった、奇行の数々を繰り返し,ヨーロッパ各地を放浪していた。ダモ鈴木の名前は、森田拳次の漫画、「丸出だめ夫」に由来する。何をやってもうまく行かない漫画の主人公に自分を重ね合わせ、当初は、「だめ夫鈴木」と名乗っていたのだが、ヨーロッパの人々には、「だめ夫」は発音しづらく、いつの間にか訛って「ダモ」になったと言う。
当時のカン(CAN)のライブスタイルは、地方であろうが24時間以上連続で演奏を続け、演奏中に交代制で仮眠と食事を行い、また演奏に戻るというものだった。(例えば、「ユー・ドゥー・ライト」はアルバムでも20分超だが、ライブだと即興演奏により数時間に及んだという。)1970年4月、ライブ最中のカフェでの雑談で、カン (CAN)を脱退したマルコム・ムーニーの次のボーカルをどうするか?という相談を、ライブ中ながら小休止中のホルガー・チューカイとヤキ・リーベツァイトが行っていた。既に何度もオーディションを行っていたが、なかなか理想的な人材が見つけられなかった(それも「歌が上手すぎる」という理由による)。
そんなある日、ミュンヘンでのライブの小休止中に、路上でギターを弾きながら奇声をあげていたダモ鈴木を、チューカイとリーベツァイトが発見。ダモ鈴木は即日採用され、ライブに登場させられた。この時、当時のドイツ情勢を背景とした観客同士の乱闘騒ぎが発生し、数十人が警察に連行されるという騒ぎになる。しかし、バンドとして、この結果は大満足であり、これ以降ダモは正式なメンバーとして迎えられる事になる。しかし、ダモ自身はカン (CAN)の音楽に興味も持っておらず、偶発的な出会いによって参加したにすぎなかった。
ダモは以後、1973年まで在籍し、カンの全盛期を支える大きな力となった。とくに、即興的で型にとらわれないダモの歌唱法は、カンのサイケデリックな音楽によく合致し、他のボーカリストには見られない、類い希なフリークでアナーキーなフィーリングを生み出した。また日本語による歌詞を配置した楽曲も少なくない。
1973年にバンドを脱退したが、リハーサル中に突然奇声を上げて飛び出していったと伝えられている。これを後年に質されたとき、「そのとおり」と語っている。
一時ダモはエホバの証人に入信し、その教えにより、音楽の世界から身を引き、現地でサラリーマンを勤めた。
ガン治療に於いても輸血を拒否した事で体重が激減し、ガン再発によって更に激減。その時の体重は30kg代とも言われている。
1983年、音楽活動を再開し、ドンクルツィッファーやヤキ・リーベツァイトのファントムバンドに参加。1990年代以降、現在に至るまで、世界各国のさまざまなジャンルのミュージシャンやバンドとセッションをするダモ鈴木ネットワークで活動している。来日時には、YMOの細野晴臣とラジオの生放送で大喧嘩を行った。
近年ではマーズ・ヴォルタのギタリストのオマー・ロドリゲスのOmar Quintet のライブにも参加し、2007年にはオマーとのコラボレートEP "Please Heat This Eventually"を発表している。』』
もういっちょ。
- 2011/09/05(月) 22:25:55|
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